荒川豊蔵(あらかわ とよぞう)

明治27年(1894年)~昭和60年(1985年) 陶芸家。 土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれる。 もともと京都宮永東山の東山窯工場長だったが、大正11年(1927年)に北大路魯山人に招かれ鎌倉の星岡窯に移る。 昭和5年(1930年)には焼物史上の大発見、可児郡久々利村(現在の可児市)大萱牟田洞の古窯跡で志野焼陶片を発掘して、安土桃山時代の志野焼が瀬戸では無く美濃で製作された事を実証した。 昭和30年(1955年)、「志野焼」「瀬戸黒」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。 昭和46年(1971年)には文化勲章を受章した。
 

安藤百曲(あんどう ひゃっきょく)

天明8年(1788年)~慶応元年(1865年) 武士。 名古屋に生まれる。 本名:安藤正修。 武士道を歩みながら、茶道を嗜む風流人。 狂歌にも才能を発揮。 30代の時、岐阜奉行の手代として赴任、のちに吟味役、御山番を兼務した。 楽家9代・了入に師事し、自邸の庭の一角に窯を築いて、赤川洞(現伊奈葉神社付近)の土で作陶を楽しんだ。 作品には、当時の尾張藩主、徳川斎荘公より拝領(天保11年・1840年拝領)した金印を押した。 「百曲」の銘は、住居近くの金華山登山道に因んだ号。
 

安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)

天文23年(1554年)~寛永19年(1642年) 浄土宗の僧。 幼いとき美濃国浄音寺で出家し、策堂文叔に師事し、その後、京都禅林寺永観堂に転じ智空甫叔に学んだ。 天正年間(1573年~1592年)、中国地方に赴き備前国大雲寺などを創建したと伝えられる。慶長元年(1596年)、美濃浄音寺に戻り25世住持となる。慶長18年(1613年)京都誓願寺55世(浄土宗西山深草派法主)となり、貴顕と交友を広げた。 元和9年(1623年)、紫衣の勅許を得た後、塔頭竹林院に隠居し、茶室安楽庵で余生を送った。
 
策伝はまた、安楽庵流茶道の流祖としても、収集あるいは見聞した椿に付いての記録『百椿集』(寛永7年・1630年)を残したことでも知られる。策伝作の狂歌・俳諧も残っている。親王・五摂家・武士・文人の間に広く交流を持ち、特に松永貞徳や小堀遠州との交流が深かった。
 

円空(えんくう)

1632年(寛永9年)~1695年(元禄8年) 天台宗の僧。 美濃国に生まれる。 羽島市生まれとも、美並村(現、郡上市美並町)生まれとも言われる。 1663年(寛文6年)までは津軽藩におり、その後青森から道南・松前を訪れ、多くの仏像を残し、1669年(寛文9年)頃、美濃国に戻る。
 
円空の彫る仏像は「円空仏」と呼ばれる独特の彫刻で、生涯に12万体の仏像を彫ったといわれ、飛騨、美濃地方の各地に円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。 一刀彫という独特の彫り方で、一見すると雑に見え、ゴツゴツとした感じがするが、不可思議な愛らしい微笑をたたえている。
 

大橋翠石(おおはし すいせき)

元治元年(1865年)~昭和20年(1945年) 日本画家。 岐阜県安八郡に生まれる。 「虎の翠石」と言われ、翠石の描いた虎画は本物の虎がまるで生きているかのような躍動感がある。 15歳で葆堂の門に入り、19歳で京都に出て方壷に就き、21歳の時に東京に上り渡辺小華(渡辺崋山の子)に入門した。 その後大垣に帰郷し、濃尾大震災後、虎の見せ物小屋で虎を見て、毎日写生をして、翠石独特の画風を確立されたと言われる。
 
この緻密な毛書きが施された虎画は明治33年(1900年)にパリ万国博覧会で絶賛され優勝金牌を受賞し、続いてセントルイス万国博覧会、日英博覧会など国際博覧会で連続優勝金牌を受賞した。 大正元年(1912年)に大垣市から神戸市須磨に移住し、翠石の画業の中心は神戸市へと移った。
 

荻野梅園(おぎの ばいえん)

文化9年(1812年)~明治20年(1887年) 武士。 高富藩の家老・伴茂久太夫の次男として生まれるが、荻野家の養子となる。 笹土居町に住み、岐阜奉行所に出仕。 本名:荻野喜内。 道忠ともいい、別号を會心居という。 公務の余技に作陶し、ほとんどが共箱で、箱の右上に「金華山」の焼印を押していて、最初に金華山焼を使い始めたよう。 茶道を楽しみ、池之坊の華道に造詣が深かった。 
 

神楽丘不入(かぐらおか ふにゅう)

 
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加藤栄三(かとう えいぞう)

明治39年(1906年)~昭和47年(1972年) 日本画家。 岐阜市美殿町に生まれる。 昭和4年(1929年) 帝展「夏日小景」初入選、昭和6年(1931年)に東京美術学校日本画科卒し、結城素明に師事。 昭和11年(1936年)に文展に出品した「薄暮」で文部大臣賞を受賞したが、昭和20年(1945年)の岐阜空襲により作品の多くを焼失。 ふるさと岐阜をモチーフに「長良川鵜飼」「高山祭り」「淡墨桜」など多くの風景画を描いた。
 

加藤卓男(かとう たくお)

大正6年(1917年)~平成17年(2005年) 陶芸家。 多治見市に生まれる。 父の加藤幸兵衛に師事。 1945年(昭和20年)徴兵された広島市で被爆。 白血病を発症し約10年間、闘病生活を送る。 昭和40年(1965年)フィンランド工芸美術学校に留学。 そこからイランの窯址を訪ねペルシャ陶器の研究に尽力し、ラスター彩、青釉、奈良三彩、ペルシア色絵などを再現した。 平成7年(1995年)重要無形文化財「三彩」保持者(人間国宝)認定。
 

加藤東一(かとう とういち)

大正5年(1916年)~平成8年(1996年) 日本画家。 岐阜市美殿町に生まれる。 昭和22年(1947年)に東京美術学校日本画科を卒業。 第3回日展「白暮」に初出品し入選。 昭和59年(1984年)に日本芸術院会員、平成元年(1989年)に日展理事長となる。 平成5年(1993年)、金閣寺大書院障壁画完成。 平成7年(1995年)に文化功労者受賞、平成8年(1996年)には岐阜市名誉市民となった。
 

川﨑小虎(かわさき しょうこ)

明治19年(1886年)~昭和52年(1977年) 日本画家。 岐阜市に生まれる。 土佐派の流れをくむ祖父の川崎千虎に師事したのち、東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科で学ぶ。 初期には大和絵を基調とした叙情的な作品を描いたが、次第に人間的な色合いの濃い作風へと変わり、晩年の戦中から戦後にかけては山梨県落合村(現、南アルプス市)に疎開し、身近な風景や草花、果物、動物など素朴な主題を描く。 その後、日展を主な舞台として静謐で詩情に満ちた作品を数多く発表した。 小虎の長女「すみ」は、日本画家東山魁夷の妻。
 

川嶋昭陰(かわしましょういん)

元治元年(1865年)~大正13年(1924年) 僧。 妙心寺597世、槐安軒・無隠軒と号す。大徳寺時代に表千家・惺斎宗匠が参禅。 晩年は岐阜・瑞龍寺住職。
 

熊谷守一(くまがい もりかず)

明治13年(1880年)~昭和52年(1977年) 画家。 中津川市付知町(旧:恵那郡付知)に生まれる。 孤高の画家であり「画壇の仙人」と称される程であった。 写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で『熊谷様式』ともいわれる独特な様式を確立。 自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた。 洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。 後年、文化勲章、勲三等叙勲を辞退したことでも知られる。
 

黒田六一郎(くろだ ろくいちろう)

元文2年(1737年)~寛政2年(1790年) 武士。 第19代岐阜奉行として安永10年(1781年)~天明8年(1788年)まで在職した。 通称を「黒六(くろろく)」という。 茶道、俳諧を好み、任務の傍ら、赤川洞(現伊奈葉神社付近)の土で作陶した。 現存する作品は極めて少なく、「黒六」「御山」の印を押したものがある。
 

仙厓義梵(せんがいぎぼん)

寛延3年(1750年)~天保8年(1837年) 臨済宗古月派の禅僧。 美濃国武儀郡高野村(現・武儀郡武芸川町高野)の小作農の家に生まれる。 11歳で得度して、武州永田・月輝庵の月船禅慧の法嗣となり、各地の僧堂にて厳しい修行を積む。 39歳の時、大宰府・戒壇院の太室玄昭(月船禅慧門下の法兄)の勧めで博多に下る。 40歳で聖福寺開祖栄西の第123世の法燈を嗣ぐ。 禅僧として尊敬され、また気取らない慈愛に満ちた人柄で多くの人々から親しまれた。 62歳で法席を退いて隠棲。 人々に詩文や書画を描き与えた。 禅の境地をわかりやすく説き示す軽妙洒脱でユーモアに富んだその味わいは、人々に広く愛されてきた。(「□△○」は有名)  その人気はすざましく、あまりの依頼の多さから「絶筆」の碑を自ら建てるほどだった。
 

高屋寿山(たかや じゅざん)

明治13年(1880年)~昭和34年(1959年) 陶芸家。 高富町梅原に生まれる。 当初、梅原に窯を築き「梅仙」と号して主に茶碗を作陶。 大正5年(1916年)、矢島寿山より「寿山」の号を譲られ、2代目を継いだ。 岐阜に居を移してからは、茶碗・花器・香炉等多種に渡り製作、初代譲りの技術を生かし、隷書体の書彫や透かし彫も得意で、愛好家の間では好評だった。 二十歳頃から没する直前のまで作陶を続けたという。
 

林晃三(はやし こうぞう)

明治13年(1880年)~昭和15年(1940年) 陶芸家。 岐阜市松屋町の素封家の林家に生まれる。 本名:幸三郎。 自宅に茶室を作り、茶人らしい風流生活を楽しんだ。 また、能や笛などの造詣も深く、芸妓顔負けの名演技をしたという。 若い頃は「濃飛日報」の記者をしていたが、たまたま開いた骨董屋の商いを通じて陶芸の道に入った。 大正4年(1915年)から千歳窯を築いて作陶を始めた。 
 

福田旭水(ふくだ きょくすい)

安政3年(1856年)~昭和3年(1928年) 陶器製造業、陶芸家。 岐阜市加和屋町(現・本町1丁目)の茶舗に生まれる。 本名:福田金次郎。 明治20年頃に美園町に移り、家業の茶舗「大吉園」を経営。 明治23年頃から数人で、過去の「岐山焼」「御山焼」の再興を目指すものの、濃尾震災の為中断。 明治29年から金華山麓(梅林公園付近)に窯の火を興した。 茶道具のほかに、食器類やお土産品などを製作、特産品にまでなり、最盛期の大正時代には輸出もされていた。 2代目が早世し、3代目が幼少だった為閉窯。
 

前田青邨(まえだ せいそん)

明治18年(1885年)~昭和52年(1977年) 日本画家。 恵那郡中津川村(現中津川市)に生まれる。 17歳の時、師 梶田半古から「青邨」の雅号をもらう。 大正11年(1922年)には日本美術院留学生として渡欧した。 歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画も描いた。 中でも、武者絵における鎧兜の精密な描写は有名。 昭和30年(1955年)に文化勲章を受章するなど、院展を代表する画家として活躍する。 晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わる。 弟子に平山郁夫がいる。
 

松枝不入(まつがえ ふにゅう)

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水野柳人(みずの りゅうじん)

明治6年(1873年)~昭和34年(1959年) 画家・俳人。 郡上八幡町に生まれる。 鮎の柳人として知られる。 商家出身の旦那衆で、絵画のほかに俳句を嗜み、茶の湯に精通した風流人。 谷崎潤一郎、柳宗悦、菊池寛、大仏次郎ら多くの文人墨客と交わる。
 

守屋多々志(もりや ただし)

大正元年(1912年)~平成15年(2003年) 日本画家。 大垣市船町に生まれる。 昭和5年(1930年)、岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業後上京し、同郷の前田青邨に師事。 昭和11年(1936年)に東京美術学校を卒業。 卒業製作「白雨」が川端玉章賞を受賞した。 昭和29年(1954年)、総理府留学生としてイタリアに2年間留学。 昭和42年(1967年)、法隆寺金堂壁画再現模写開始。 第十号壁「薬師浄土」を担当。 昭和47年(1972年)には文化庁より高松塚古墳壁画模写を委嘱され、東壁の女性群像を担当した。 昭和51年(1976年)、飛鳥保存財団より委嘱され、高松塚壁画館に展示するための壁画模写(20面)に総監督として従事。 昭和60年(1985年)に内閣総理大臣賞受賞、平成13年(2001年)には文化勲章を受章している。
 
昭和から平成にかけて日本美術院において活躍し、太平洋戦争従軍時やイタリア留学時を除いて、ほぼ毎年出品していた。 作品は、歴史と古典への深い教養に根ざし、歴史人物を堅牢な絵画空間の中に描出した「歴史画」が中心で、その知識と姿勢が評価され、歴史考証が必要な小説挿絵や舞台美術、衣装デザインなどでも活躍した。
 

矢島寿山(やじま じゅざん)

弘化3年(1846年)~大正11年(1922年) 陶芸家。 信州・川中島に生まれる。 本名:直十郎。 寿山、寿翁と号した。 16歳で上京し漢学を学び、その後長崎で篆刻・鉄筆を修め、さらに名古屋で楽焼を研究、京都では陶房を訪ねて見識を深めた。 明治32年(1899年)以降金華山麓に住み、大正元年より岐阜公園近くに窯を築いて「寿山焼」として作陶した。 遊学期に高富町梅原の高屋家を訪れ食客となったことが縁で、大正5年頃、高屋辰之丞に号を譲り、自らは寿翁を名乗った。
 

山本芳翠(やまもと ほうすい)

嘉永3年(1850年)~明治39年(1906年) 洋画家。 恵那市明智町に生まれる。 始めは南画を学び、その後五姓田芳柳に入門し、洋画を学ぶ。 明治11年(1878年)、パリ万国博覧会を機にフランスに留学しジェロームに絵画技法を学んだ。 明治20年(1887年)に帰国し、版画家合田清とともに画塾(生巧館)を主宰。 明治22年(1889年)、松岡寿らと明治美術会の設立に尽力した。 明治27年(1894年)に黒田清輝がフランスから帰国すると画塾を黒田に譲り、また黒田が結成した白馬会に参加した。
 

横山鈴翁(よこやま れいおう)

寛政8年(1796年)~明治8年(1875年) 尾張藩御用達商人。 下竹屋町に生まれる。 本名:七右衛門卓寛。 8代目を名乗る旧家。 別号は嶺秀軒右峯、木葉老人。 かなりの富裕者で、西本願寺別院に百枝松を寄進したり、明治まもなく人力車で京都まで出かけた逸話がある。 和歌・俳句・漢詩・茶道・陶芸と多芸多才の文人であった。 また長男も茶道・和歌・作陶を嗜む風雅人で「鈴斎」と号した。 号の「鈴翁」は、横山家に伝わる古鈴に因む。