この“松枝不入伝”は、岐阜で茶道具商を営まれています「川瀬一塵居」氏が、不入没後150年に際し、1999年に編纂されました「実像・松枝不入」の一部を、転写・簡略化・再編集し記載致しております。茶道具商の大先輩の功績に乗じ、この記事を掲載させて戴きました。
“松枝不入”なる人物が多くの方々の周知のところとなりますれば幸いに存じます。 
 

野々村 拝

不入は明和8年、尾張藩・多芸郡横曽根村(現在の大垣市横曽根町)の安田家に生まれました。 安田家は、同藩の西美濃最大の名家豪農でした(かつては大垣市文化財に指定も、もらい火のため消失)。
 
およそ17歳の時、加納藩・御園(現在の岐阜市美園町)の天野家の養子となりました。 天野家は屋号を丸屋といい、篠田家とともに醸造業を営み、両家の生産量は加納藩の半分以上を占める程の抜きん出た豪商でした。 天野家の代々は勘蔵と称し、冷泉家の和歌・松尾流の茶道を嗜みました。 不入の養父勘蔵は意順(為順とも)と号し、不入はその娘“きし”を妻としました。 家督相続後、養父同様勘蔵を名乗り、娘せい、息子辰次郎をもうけましたが、養家に来て20年後の文化5年に

 
と書置きを残して出奔しました。 その後、京都比叡山麓の“神楽丘”に居を構えた、というのが定説のようです。
 

さて、一介の町人の不入が、どうして大大名である“松平出羽守治郷不昧”公と出会ったのでしょうか?
 
寛政11年、江戸で二人の子が生まれました。 1人は不昧公の子、もう1人は直参旗本・久世道空の子でした。 不昧公の子は間もなく亡くなってしまいましたので、道空の子を養子にし、善功(よしかつ)と名付けました。 この善功は成人すると、岡田善明の養子となり、“岡田伊勢守雪台”となりました。 岡田善明は天領・岐阜町の代官です。
 
その頃の美濃国・加納藩の江戸詰家老は篠原長兵衛でした。 この篠原長兵衛は江戸において知名な茶人として知られ、吉村観阿(白酔庵)の八十の賀の茶事にも招かれた人物です。(吉村観阿は不昧公に大変可愛がられていた人物) この篠原長兵衛は、久世道空と宗徧流の同門だったのでした。
 
不入は前に述べました様に、天領・岐阜町と加納藩の接点として栄えていた御園(現在の岐阜市美園)の豪商でしたので、加納藩主や篠原長兵衛、久世道空、岡田善明、吉村観阿などの人物を通して不昧公と接触したと考えられます。
 
一般には「出奔する時懐中してきた五百金で購った地蔵尊を背に負い町の中をゆく不入を見つけた不昧公は家来にその人物を誰何させ、その人格を見抜き、茶道の堪能なるを知り不昧の技能のすべてを伝授した」と言われていますが、前出の書置きの文章から考えて、出奔時に五百金もの大金を持って出るとは考えられません。
 
やはり、これらの人脈を介して不昧公の愛顧を乞う様になったと考えるべきでしょう。
 

“不入”という名はどこから付いたのでしょう?
 
文化7年(1810年)に松平不昧公は還暦を迎えました。 不入はそれを祝い茶会を催しました。 この時、京都から竹の花入を持参し、使用しました。 この花入に不昧公が「廣澤」と銘を付けられました。 この箱に“不入斎”と書かれていたのです。 “不入”という名が不昧公によって付けられたという説の根拠はここにあるようです。
 
また文化6年に不入は、不昧公から三幅対を餞別に頂いています。 この箱書きにすでに“不入へ”と記されています。
 
一般に「生涯松江に入らなかったから不入と名付けた」と言われてきましたが、文化5年に出奔した不入が1年程で「生涯松江に入らなかったから」というのは少々無理があります。 不入と不昧公の交流は10年という短さでしたし、不入が松江に入らなかったという証拠もありません。 逆に松江の焼き物の布志名焼の火入を送っている事実さえあります。
 
一説には「今後一切養家に入らない」=“不入”であるという決意を示すとの説もあるようです。
 

不入は、“飄逸な茶人”としての記述が大半を占めるようですが、生涯の間に膨大な量の茶道具を製作しました。 以下にも数点作品を掲載いたしましたので、ご覧頂きたく存じます。
 
また、文化14年に不昧公が亡くなりますが、公の死後も松平家へ出入りしていた事は想像できますが、不入の作品中、不昧公所持写しの多さからも、いかに不昧公に可愛がられていたか、よく分かります。
 
- 不入 作品 -